#2 ブコウスキーの要求
「ブコウスキー……」
再会翌日の朝。私は目覚めると、せんべい布団の中から、ブコウスキーを呼んでみた。
応答なし。首を回し、壁の時計を見た。朝11時。
このところの私の起床時間は徐々にうしろにずれ込んでいるが、いつもより早く目覚めたらしい。起きようか、どうしようか。起きたところで何もすることはない。
「ブコウスキー……いないの?」
応答なし。ついでに気配もなし。
彼が側にいるときの異常な酒臭さはなく、部屋は何事もなかったかのように静かだった。夢? いや、彼は昨日確かに現れた。根拠のない確信があった。私はついに壊れたのかもしれなかったが、それでも良かった。
私は起き上がり、用を足してからリビングへ行った。
リビングのカーテンは閉めきられており、目を細める必要はなかった。
すえた臭いがした。この部屋の大部分を占めるダイニングテーブルの上からくる臭いだ。数週間前から、丸めたティッシュ、空の惣菜容器、読みかけの雑誌等のあらゆるゴミが乗せてあった。
今日もカーテンすら開ける気にならない。今日の奇跡は午前中に目を覚ましたことだから、これ以上の奇跡を同じ日にもう一度起こす必要はないだろう。
隣接の台所へ行き、コーヒーを入れるためにヤカンを火にかけた。
それから、クッションに尻の形の付いた古いイスに腰かけ、湯が沸くのを待った。
「酒はどこだ!? この家にはビールの1本も無いってのか?」
突如、台所からブコウスキーの声がした。声のする方を見ると、流し台下の棚の中からブコウスキーが四つん這いになって出てくるところだった。
私は、立ち上がったブコウスキーを見上げた。
身長180cmはあるだろう。彼は大男だった、彼について書かれたものから想像していた通り。ニキビ跡の目立つ顔に突き出した腹も同じく想像通り。この巨体を、高さ90cm×幅150cmの流し台の下に、どうやって入れたんだか。彼が立つ台所は、普段より狭く見えた。
「ないよ。酒はあまり好きじゃないんだ」と私は答えた。
飲まないようにしているというのが本当の所だった。
無職で孤独な現在、1人で飲むのは最初はいいかもしれないがいずれ辛くなることは容易に想像できた。空しさを紛らわすために量をふやし、さらに空しくなり……。それは嫌だった。まだ僅かながらの分別を保っていた。
「そうか、くそったれな家に転がり込んじまったな。くそ、このくそったれ」
ブコウスキーは毒づいた。甲高い声、これも著書巻末のあとがきで読んだことがある、ブコウスキーの声は甲高いと。残念だが、想像通りだった。
「ついでに買ってきてもいいよ」と私は言った。
「ついで?」そう言うと、ブコウスキーは静かになった。
そういえば彼は、こちらに体を向けてはいるが、全く目を合わせない。その代りに壁か床を見ている。他人と目を合わすと、自分に危害が及ぶとでも思っているような様子だった。何かを恐れているような。私は父を思い出した。母を殴るくせに気弱な父。
「今日、ブコウスキーの本を買いに行くんだ。ついでにビールを買って……」
「バカなことに金を使うな!」
即座に彼は叫んだ。咳払いをして、次に、急に猫なで声になり、つづけた。
「本なんか買う金があったら酒に回して欲しい。それが賢い人間の金の使い方なんだ、美人のお姉さん」
私は、答えた。決まっていた答えだった。
「昨日あなたと再会した時から決めていたんだ。もう一度、あなたの本を読みたくなった。だから、酒は残った金でしか買えない」
返事はなかった。
ブコウスキーを見ると、彼は、私の胸のあたりを意識的に見ていた。そういえば、私はタンクトップとショートパンツしか身につけていない。私に見られていることに気づき、ブコウスキーは別の場所に目をやった。なるべくさりげない方向、私の真後ろにある閉めきったカーテンの方へと。
「さて、本を買いに行かなくちゃ。あ、ビールもね」
私は、床に積んであった洗濯物の中から下着とジーンズ、着古したセーターを引っ張り出して着替え始めた。彼は見ているだろうと思った。構わなかった。憧れの作家が私の前に現れたことに、改めて興奮していた。
#1 ありえない再会
チャールズブコウスキー。
アメリカの作家。
カルト作家と言われている。
ブコウスキー好きにはダメ人間が多いと言われている。
私はチャールズブコウスキーが好きだ。
とてつもなくかわいらしいところと、やさしいところが。
彼のストイックと自堕落の共存が、剥き出しの精神が。
最近仕事がなくて追い詰められた気分になり、ブコウスキーを再読したくなった。
だけど今の私は本を買うか借りるかしなくては読めない。
わたしはブコウスキーの小説を学生時代から愛読しており、以前は殆どの訳書を手に入れ、書棚にコレクションしていた。
その頃、同じくブコウスキー好きの人とただそれだけの理由(=ブコウスキーが好きな人だから)で付き合った。
やはりやつはそうだったのかもしれない、私も。ダメ人間。
だとしたら当然関係はあっけなかった。
やつと付き合って1つ後悔していることは、私のブコウスキーコレクションを奪われたことだ。
ある朝、やつは部屋を出る前に突然「ありがとう」と言い、私の目の前で、コレクションしていた本を全冊ごっそり持ち帰ってしまった。私は、惚れた弱みで笑って許してしまった。
バカだったな。
ブコウスキーなら何で言うだろう。今の私に、あの時の私に。
俺の本のどこがいいんだ、くれちまえ。
図書館で借りろ?
また買えばいい?
……自分で書け。
かけないよ、ブコウスキー。ブログで精いっぱいだよ。
自分を慰めるためという思春期の人の様な理由で、私はこのブログを開設した。ほんの出来心ともいえる。あの頃と同じ衝動的な行為だ。私は何も変わっていなかった、中身は何も、何一つ、最低だ。その考えが、再び自らをせんべい布団の中に追いやった。
「じゃあブログなんかやめちまえ」
私は潜り込んでいたせんべい布団から顔を出してみた。塩味の水に滲む汚れた風景の中に、彼が立っていた。ブコウスキー!